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2026年3月08日・四旬節第3主日 (A)
出エジプトEx 17.3-7・詩編 95. 1+2, 5+6, 7+8・ロマ 5.1-2, 5-8・ヨハネ 4.5-12 Today is the Third Sunday of Lent. We come to Church today and these coming weeks before Easter with our prayer intentions for those who will be receiving the Sacrament of Baptism on Easter Vigil Mass. A short reading from the book of Exodus today talks about the instruction of the Lord to Moses as a response both (1) to the complaint of the people to him (to Moses) regarding insufficient water to drink for themselv


2026年3月01日・四旬節第2主日 (A)
創世記 1-4a・ 詩編 33.4+5, 12+13, 20+21・ 2 テモテ1.8b-10・マタイ17.1-9 イエス様と弟子たちの関係においてのとても大切な瞬間とは、単にイエス様が弟子たちにとっての先生であるという事だけではなく、キリストであり救い主であり、皆が待ち望むイスラエルのメシアであるという事を認識できる瞬間です。もう一つの大切な瞬間は、完全に弟子たちにとって先生(イエス様ご自身)でありメシアであると認識されたイエス様が、遅かれ早かれ、イエス様の事を脅威や敵とみなす人びとに「引き渡され」、「磔刑」を受け、最終的には十字架上で「死」を迎えるといった 苦しみをお受けになる 事を、弟子たちに告げ知らせ始めた瞬間です。そして、3日後に死から復活される事は、弟子たちがよく理解すべきもう一つの事です。私たちは、イエス様の最初の弟子たちのように、例えば永遠の幸福、人生のいろいろな困難な事柄から私たちを永遠に解き放ってくださるメシアを切望しています。私たちにとって最高の場所を見つけた時、私たちは永遠にその場にとどまりたいと思い、その願いは永遠に続き


2026年2月22日・四旬節第1主日 (A)
創世記 2.7-9,3.1-7・ 詩編 51.3+4, 5+6cd,12+13・ローマ 5.12-19・マタイ 4.1-11 祈り、断食、そして、施しは、敬虔なユダヤの人々の主な行いです。これらの行いは、特に四旬節の間、私たちクリスチャンにとっても然るべき行いです。今年の典礼カレンダー より、灰の水曜日は2月18日、また、受難の主日は3月29日、聖なる過ぎ越しの 三日間は、その週の木曜日、金曜日、土曜日となっています。 四旬節の間、これらのすべての行いは、ひっそりと傲慢でないことが大切であると強調 されています。これらは、私たちを神さまと神さまのなさることに近づけるという本当の 目的を見失わないことを目指すものです。私たちは、この四旬節の行いが、周りの人々に 見せるためのものではないという事を、苦なくして思い起こします。これは、不必要な 傲慢さを招かず、周りの人びとの注意を引いてしまわないように気を付けなくてはいけないことを意味しているのかもしれません。 施しの行いと同様に断食の行いは共により深い意味を持っていますが、私は、特にこの.


2026年2月15日・年間第6主日(A)
シラ 15.16-20・詩編 119.1+2a+3b,17+18・ 一コリント 2.6-10・マタイ5.17-37 自由は全世界で本当に重要である故に、それぞれの国々とすべての人びとは自由を求めています。そして、人は自由を見つけた時、宝物のように勝ち取るための準備をし、たくさんの様々な姿をした抑圧を二度と繰り返さないと約束します。たくさんの国々の近年の出来事や、最近の一人ひとりの個人的な経験も含む世界の歴史は、自由と抑圧の両方について幅広く物語っています。 シラ書からの第1朗読では、すべてを知っておられ、私たちに生と死、また善と悪を選ばせてくださる神さまについて書かれています。神さまの掟は私たちを救い、私たちがこの掟を守り、神さまに信頼を置くことを選べば、私たちは生きる事ができるのです。基本的に私たちの信仰において、自由とは善を行う自由であり、更に自由とは悪なるものを避ける力であると、私たちは理解しています。それ故に、自由とは神さまからの聖なる、そして素晴らしい賜物であると、私たちは理解しているのです。私たちは、自由の中で生き、自由を広め、自


2026年2月8日・年間第5主日 (A)
イザヤ 58.7-10・詩編 112.4, 6・1 コリント 2.1-5・マタイ 5.13-16 今日の朗読は、イエス様の弟子である事の意味を、私たちがもっと理解するための助けとなります。先週の福音朗読(幸いである事についての山上の説教)のすぐ後に続く福音朗読によって、私たちは、「幸いな人」とは、周りの人びとからも「見られ、感じられる幸い」を意味している事に気付くべきでしょう。ですから、私たちは、本物のイエス様の弟子としての祝福とは、たった一人のためのものではないという事を思い起こさせられるのです。今日の福音朗読の中でイエス様は、私たち一人ひとりが地の塩であり、光であるようにと、強く語られています。今日、私たちは、地の塩と光についてのシンプルなイメージを黙想することから始めて、私たちの日常生活の中でのこれらのシンプルなイメージ/出来事が、何を意図しているのかを心から認め受け入れていきましょう。 今日のイザヤの預言からの朗読は、飢えている人、家のない人、着る者のない人たちに対するたくさんの、そして様々なかたちでの神さまから擁護について、思い起こ


2026年2月1日・年間第4主日 (A)
ゼファニヤ 2.3, 3.12-13・ 詩編 146.1+2+10a,6c+7,8ac+9bc・一コリント 1.26-31・ マタイ5.1-12a 私たち一人ひとりの人生観、あるいは物事のとらえ方、理解や判断の仕方は、確かに異なっていて、当然、私たちがどのようにこの世で生きているのかによるものです。また、その人の人生観は、この世で与えられているものや、私たちの周りにあるあらゆるもの、私たちが持ちたいと思っているもの(動機や目的となるもの)や、そうでありたいと思っているものに大きく影響されるのかもしれません。けれども、今日の朗読では、私たち各々が、そして、皆が私たちの人生の視点を見直し、正直に良心を日々見つめなおし、何度も反省し、最終的には、私たちの信仰の神さまが、どのように私たちよりも異なった見方をされているのかを気づくようにと招いています。 今日の朗読は、私たちと「この世界」が一般的、そして日常的な誤解や見落としをしている事柄を、私たちが見出す機会を与えてくれています。今日の福音朗読が示している、いわゆる「至高の祝福」(至福)は、それほど簡単に


2026年1月25日・年間第3主日・神のことばの主日 (A)
イザヤ 8.23b – 9.3・詩編 27.1,4,13+14・一コリント. 1.10-13,17・マタイ4.12-23 数年前から年間第3主日は、神のことばの主日として定められています。毎年のこの神のことばの主日の目的は、私たち一人ひとりが聖書を読む事を促進し、ミサの中での聖書の朗読をもっと集中して聴くための助けとなる事です。言葉の典礼は、ミサの中でも重要なものとなっています。 今日、私たちは「神さまが聖書を通して私たちに語りかけて下さる」事を強調すべきなのです。また、私たちはミサ以外の時でも聖書を読み、私たちの生活に中で聖書が私たちに何を語りかけているのかを実感し、「聖書における体験」を隣人たちと分かち合うための黙想にもっと時間を費やすようにと勧められています。 今日の朗読の重要なポイントは、私たちが、イエス様がすべての国の人びとの光である事を共にもっと深く理解する事です。イザヤの預言(第1朗読)に沿って、ゼブルンとナフタリの未来の変化、彼らの闇にもたらされた光、実り多き収穫のような解放と喜びと豊かさの体験は、イエス様がガリラヤで宣教を始めら


2026年1月18日 ・ 年間第二主日(A)
イザヤ49.3,5-6・詩編 40.2+4ab,6,10・ 一コリント 1.1-3・ヨハネ 1.29-34 今日の年間第2主日では、私たち一人ひとりの召命について黙想するようにと招かれています。もし、私たちが、大なり小なりすべての家族や教会の共同体の召命についても深く考える事ができるのであれば、それは素晴らしいことです。同時に、私たち一人ひとり、そして、共同体の召命は、もちろん神さまの救いの使命にしっかりと根ざされたものでなければならないという事を、私たちに思い起こさせてくれます。 何よりもまず、神さまの救いの使命が、すべての国々の民に光をもたらし、心の回心を促し、罪を赦し、水と聖霊によって洗礼を授け、人類に死から新しいいのちをもたらすというイエス様の使命であるという事を、私たちは理解しなくてはならないでしょう。 また、現代の世界での教会の存在をよく理解し認め、且つ、教会の召命も同様に理解しなくてはならないでしょう。今日の朗読は、イエス様の使命が教会の使命であることを、私たちに伝えているに違いありません。つまり、私たちは、神さまのお恵み(たく


2026年1月11日・主の洗礼(A)
イザヤ 42.1-4, 6-7・詩編 29.1+2, 3+4, 9c+10+11 ・使徒言行録 10.34-38・ マタイ 3.13-17 教会の典礼暦A年における主の公現の祭日から一週間を経て、主の洗礼の記念日になります。イエス様は、ヨルダン川でヨハネによって洗礼をお受けになります。イエス様がヨルダン川から上がられると、聖霊が鳩のように降り、イエス様の事をわたしの愛する子と呼ばれる父である神さまの声が天から聞こえます(マタイ3.16)。ですから、今日の私たちの黙想は、イエス様とは誰なのか、そして、何のために来られたのかという事が中心となります。同時に、私たちは、イエス様の公の宣教が、ご自身の洗礼から始まったという事を理解するでしょう。このヨルダン川での重要な出来事は、イエス様が、教え、癒し、そして、奇跡を行われるために尽くされ神の国の事を宣べ伝えるという神聖なる使命を受け入れられた事を示しています。 今日のイエス様の洗礼のお祝いは、ヨルダン川で起きたすべての出来事と共に、神さまの愛、聖霊の力、イエス様がすべての人々にもたらされた希望を、


2026年1月04日・主の公現 (A)
イザヤ60. 1-6・詩編72..2+4, 7+8, 10+11, 12+13・エフェソ3. 2、3b、5-6・マタイ2. 1-12 今日、私たちはイエス様が世界に向けて、公にお現われになった事をお祝いし、それ故に、今日という日を主の公現の祭日としています。そして、私たちは、お生まれになったイエス様を探して遠方から旅をしてきた東方の3博士(3人の賢者)の訪問を思い起こします。彼らは星に導かれて、イエス様がどこに居られるのかを探しました。東方の3博士の訪問は、私たちが思い起こす事のできる象徴的な出来事です。東方の3博士は、光に導かれ、喜びを見出し、贈り物を捧げました。しばしば3博士の訪問は、生れや文化に関わらぬすべての人びとへの神さまの無限の愛の表れとされています。この出来事は、イエス様がすべての人びとのために来られ、真理を求める人は誰でも、イエス様のもとに行くことができるということを、私たちに思い起こさせてくれます。 特に今日の朗読は、光について私たちに教えてくれています。この 光 は、暗闇を照らします。私たちは、とにかく光に従うように、


2025年12月28日・聖家族(A)
シラ 3.2-6,12-14・詩篇128.2+3ab3cd+5+6a ・ コロサイ 3.12-21・マタイ 2.13-15,19-23 クリスマスの後、私たちは、聖家族の祝日をお祝いします。聖家族(イエス,マリア,ヨセフ)を家族の模範として、私たちは皆、家族生活が美しいものであり、召命であると確信しています。各々の家族は、さまざまな方法で神聖であるようにと招かれています。両親には、子どもたちの世話をし、守るという責任があります。それ故に、今日の朗読は、両親を尊び/敬い、家族の一人ひとりを心にかけ、平和のうちに生活する事について書かれています。今日の福音朗読では、特に、イエス様とマリア様と共に、ヘロデの脅威から逃れるために、ヨセフ様がどのようにして、危険に直面した聖家族を守られたのかが描かれています。また、マリア様とヨセフ様が幼子のイエス様とはぐれ(両親としてイエス様が迷子になられたと思い、心配された。)、後に神殿で幼子のイエス様を見つけられた事も聖書には書かれています。 けれども、今日の黙想は、聖家族を単に幼子イエス様と、誠実にイエス様のおそ


2025年12月21日・待降節第4主日 (A)
イザヤ 7.10-14・詩編 24.3+4,5+6,8+10・ ロマ1.1-7 ・マタイ 1.18-24 今日は待降節第4主日で、私たちは再び喜びに満ち溢れ、キリストの降誕を祝う事を心から待ち望んでいます。私たちの多くが、隣人たちや友達や親戚や家族とともにクリスマスの お祝いをしているか、または仕事関係の予定のために遅れたクリスマスと新年のお祝いの 両方を、どうにか計画しているかもしれません。年間の教会暦に沿うと、私たちには、 クリスマスまでたったの4日間しかなく、つまり待降節の黙想は終わりを告げようとして いるのです。 今日の朗読は、キリストの降誕に関する神さまのメインとなるメッセージを私たちが理解 することに対して、もう少し焦点を当てるようにと招いています。今日の朗読は、預言者や神さまの使者たちによって与えられた しるし による 長期的な準備 、そして、これらの実現のために招かれた 人々によって 、どのようにキリストの降誕が訪れたのかを物語っています。今日の第1朗読でイザヤは、しるしについて語っています;見よ、おとめが身ごもって男の子を産


2025年12月 14日・ 待降節第3日曜日 (A)
イザヤ 35.1-6・詩編 146.1+2+10a,6c+7,8ac+9bc・ ヤコブ 5.7-10・ マタイ 11.2-11 待降節(A)第3主日の喜びの主日は、喜びに満ち溢れる期待の時です。朗読では、希望と忍耐、そして、私たちとともに神さまがおられる事にはっきりと気づく事に焦点を当てて います。喜びの主日は、私たちが喜びと希望に溢れて待ち続けている事を思い起こさせて くれます。キリストが来られるための準備をする時、私たちは、神さまの約束と神さまが お考えの完璧な時を信じています。 今日の典礼は、私たちがキリストが来られるための準備をするという喜びに溢れる期待の 時を強調しています。私たちのキリスト者としての現在の生活の中で、単にベトレヘムでのキリストのご降誕のお祝いに値する、喜びに溢れる期待の心を持つという事を示して います。私たちは、キリストのご降誕を通して、個々の家族、すべてのキリスト者たち、 そして、すべての人びとと共に、神さまの愛をお祝いすべきだと思っています。待降節は、主が来られる(キリストのご降誕と再臨)事を迎えるにふさわしい


2025年 12月 07 日・待降節第2主日 (A)
イザヤ 11.1-10・詩編72. 2+4,7+8,12+13・ ローマ 15.4-9・マタイ 3.1-12 待降節(A年)第2主日は、正しい方法で準備をするための日です。ただ待つだけの日ではありません。心を開き両手を広げて、神さまに立ち返るための日なのです。 待降節第1主日の朗読と黙想のポイントは、キリスト者とすべての人びとの未来に焦点を 当てていましたが、今日、私たちは、「待つ」ということに関してのテーマが、神さまに 立ち返り、より偉大な方が来られるための準備をするという勧めと関係があるということを思い起こします。今日の福音朗読では、悔い改める事を教え、自分よりも優れた方が 来られるための道筋をまっすぐにするようにと人びとを導いた預言者である洗礼者ヨハネについて書かれています。自分は、私たちの救い主であり王であるキリストへの道を整えて いるだけであると、洗礼者ヨハネははっきりと教えています。今日の第1朗読のイザヤの 預言では、完全なる王、ダビデ王の父であるエッサイの子らについての力強い一節が 書かれています。この一節はイエス様を指していま


2025年11月30日・待降節第1主日 (A)
イザヤ 2.1-5・ 詩編 122.1+2,,3+4ab,8+9・ローマ 13.11-14a・マタイ 24.37-44 待降節第1週目、特に待降節が始まる今日という日(待降節第1主日)に、待降節の間に 強調されている神さまの3つの来臨を、私たちは意識しています。1つ目の来臨は、 イエス様のご降誕です。イエス様は、ベトレヘムの馬小屋でお生まれになりました。 2つ目の来臨は、キリスト者とすべての人びとの未来に最も関わっています。今日の 朗読では、この未来と、世の終わりの時にイエス様が最終的においでになる事に対する 私たちの信仰について焦点が当てられています。3つ目の来臨は、日々の生活においての 私たち一人ひとりへのいろいろな呼びかけです。私たちのうちにある神さまの存在を、 私たちは意識しています。私たちの日々の生活の中に神さまがおいでになるという事は、 いつも神さまと絶え間なくつながり/交わる事で可能になります。私たちの教会生活を 踏まえた上で、数々の秘跡のお祝いを通して、神さまは私たちの生活の中においでになるのです。 今日は、待降節の最初の主日


2025年 11月 23日・王であるキリスト、祭日 (C)
サムエル下5.1-3・詩編122.1+2,3+4ab,4cd+5・コロサイ1.12-20`・ルカ23.35-43 今日は、典礼暦(C)の最後の主日です。私たちは、王であるキリストの祭日をお祝い します。私たちの内におられるイエス様が救い主であり王である事を、心を尽くして認め 受け入れるようにと、私たちは招かれ、導かれています。わたし達は個々に、そして共同体として、これまでの典礼暦で、意識的にあるいは無意識のうちに、何らかの良いおこないや良くないおこないをしてきました。 私たち一人ひとり、あるいは共同体として、この1年間を通してどのように過ごして きたのか、一人ひとり、あるいは共同体に対して評価する事が、今日の私たちの黙想と考えられるでしょう。私たちは、自分たちの悪い習慣やおこない(私たちの罪)を勇気を持って終わらせるようにと招かれています。たとえ福音の真価に反することであっても、私たちが慣れ親しんできた事を終わらせる事には痛みが伴います。けれども、より良くなるために 何かを終わらせる事への恐れが、良い実り、おそらく最高の実りをよりもたらすとい


2025年 11月 16日・年間第 33主日 (C)
マラキ 3.19-20a/詩編 98.4+5,6+7b+8b/2テサロニケ 3.7-12/ルカ 21.5-19 私たちは、この世において何が善であり、何が悪であるかという事に関して、共通の理解をしています。良い人びととは、一般的に善として理解されている事を行う人びとです。 悪い人びととは、一般的に悪として理解されている事を犯す人びとです。善を行うという 事は、すべての人びとに対して良いもの、平和、そして本当の幸せをもたらします。悪を 行うという事は、人びとに悪いもの、不安、そして重圧をもたらします。実際、善と 悪についての共通の理解を持って、人びとは何を望み、何を選び、何を行うのかによって、善人あるいは悪人となります。私たちの社会での善と悪の共通の理解と、私たちの信仰( キリスト者としての信仰)を前提として私たちが持っているものをもとに、今日の黙想を 始めましょう。 信仰(キリスト者としての信仰)のうちに、神さまであり、私たちの創造主である偉大なる 善(唯一の善)が私たちにはあります。神さまは私たちをご自分の似姿としてお造りになり、神さまがお造り


2025年11月09日・ラテラン教会の献堂(C)
エゼキエル 47.1-2, 8-9,12・詩編 84.2+3,4,6+7・1 コリント 3.9c-11,16-17・ヨハネ 2.13-22 今日、私たちは毎年行われている歴史的なラテラノ教会献堂記念をお祝いします。 もちろん、これは主日に行われ、私たちのカトリック共同体の霊的信心と永遠の信仰を 象徴するラテラノ教会の重要さを強調しています。これは、単なる「この世のもの」と 思われるかもしれませんが、私たちは、深い歴史的背景と建築上および芸術上の意義をも 考慮しています。 毎年の歴史的なラテラノ教会献堂のお祝いを受けて、今日のことばの典礼では、当時も今も私たちの教会生活に関しての多くの重要な事が含まれています。私たちカトリック教徒は、祈りや聖なる集まりで使うもの、また聖なる場所も含め、例えこれらが一時的なもの であっても敬意を表します。これらを得るために多くのお金を費やす人びとや共同体すらあります。私たちは、聖水による祝福や、司祭あるいは司教の按手を願います。私たちの多くは、私たちが祈りのために特定のものを使えば使うほど、祈りや信心やミサのために.


2025年11月02日・死者の日(C)
知恵 3.1-6,9 ・詩編 23.2+3,4,6 ・ローマ 8.31b-35,37-39 ・ヨハネ 6.37-40 万霊節は、「死者の日」としても知られています。私たちは、亡くなった兄弟姉妹たちを 偲び、祈ります。カトリック教会は、煉獄で天国へ行くための準備をし、天国への道を 進んでいくという事を信じて、すべての霊のために特別に祈ります。今日は、11月2日で死者の日です。今日の特別なことばの典礼から黙想を始めましょう。今日の第1朗読では、「神に従う人の魂は神の手で守られ、もはやいかなる責め苦も受ける事はない」とはっきり書かれています。この点において、神さまが私たちのお父さんであり、私たちは神さまの こどもであるという基本的な理解から、私たちは黙想を始める事ができます。私たちは 神さまのためにあり、そして、皆が神の民なのです。言わば私たちは皆が神さまのもの 故に、神さまは、私たちやすべての被造物をお救いになります。これが私たちの信仰 であり、希望なのです。けれども、11月1日は諸聖人の祝日です。彼らは、かつて 地上で、とても人間的な経験をして生き


2025年10月26日・年間第30主日 (C)
シラ35.15b-17, 20-22a・詩編34.2+3,16+18,19+23・ルカ18.9.14 私たちは、今日の朗読から 本当の謙虚さ の持つ意味を理解しようとしています。本当の 謙虚さは、 私たちの祈りに応えられ 、正義が全うされる事を、公正かつ公平 (偏見のない)な神さまが、いかにして 約束して下さった のかという事の 理解へ とつながっています 。 今日の福音朗読の中でイエス様は、私たちの独善性に対する 偽りのない謙虚さ を教えて 下さっています。私たちが黙想するにあたって、独善性と 神さまのいつくしみと愛への 信頼 (力をお与えくださる神さま、みことばへの忠実さの実りを約束してくださった 神さまがおられる)との違いを見極める事ができますように。私たちは、 ファリサイ派の人々と悔い改めた徴税人 を比較したたとえ話を知っています。 ファリサイ派の人々の 性格は、自分たちの独善を良しとしている人々の性格を表しています。さらに、 自分たち 自身と独善性を高める ためならば、他の人々を見下す事でさえもできました。これが、 神さまから自
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