2025年11月09日・ラテラン教会の献堂(C)
- Bahay San Martin
- Nov 3
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Updated: Nov 9
エゼキエル 47.1-2, 8-9,12・詩編 84.2+3,4,6+7・1 コリント 3.9c-11,16-17・ヨハネ 2.13-22
今日、私たちは毎年行われている歴史的なラテラノ教会献堂記念をお祝いします。
もちろん、これは主日に行われ、私たちのカトリック共同体の霊的信心と永遠の信仰を
象徴するラテラノ教会の重要さを強調しています。これは、単なる「この世のもの」と
思われるかもしれませんが、私たちは、深い歴史的背景と建築上および芸術上の意義をも
考慮しています。
毎年の歴史的なラテラノ教会献堂のお祝いを受けて、今日のことばの典礼では、当時も今も私たちの教会生活に関しての多くの重要な事が含まれています。私たちカトリック教徒は、祈りや聖なる集まりで使うもの、また聖なる場所も含め、例えこれらが一時的なもの
であっても敬意を表します。これらを得るために多くのお金を費やす人びとや共同体すらあります。私たちは、聖水による祝福や、司祭あるいは司教の按手を願います。私たちの多くは、私たちが祈りのために特定のものを使えば使うほど、祈りや信心やミサのために
集まれば集まるほど、その場所や教会が聖なるものになるとさえ信じています。さらに、
そのような聖なる場所や教会には、確実に恵みが溢れていると信じています。聖なる場所は、 もっと祈りを助け、霊的な癒しとひらめきの源となり、神さまとのつながりへの理解/認識を深めるのに最適な場所となるのです。第1朗読のエゼキエルの預言では、神殿から
流れ出るもの、つまり 「神殿から流れる水は地と海にいのちをもたらし、食べ物と癒しえ、木々やその他の生き物を生き返らせる」と書かれています。神殿は、創造主である神さま... 新約聖書での私たちの主イエス・キリストと言えるでしょう。イエス様が神殿を清められる際に、ご自身の事を語られている事がわかるでしょう。初めに、神殿(イエス様の周りにいた人々が理解している建物)が、単に人びとによって商売の家のように不敬な場所とされてしまっていると語られています。その後、文字通り神殿は商売の家ではなく、神の家、神の御からだであると語られています。
ですから、聖パウロはコリントの教会への手紙で、神さまの霊が自分たちの内に住んでおられ、私たちを神さまの神殿、あるいは神さまの建物としてお造りになったと記しています。神さまの建物の土台を据えられたのは、私たち一人ひとりの心の中におられる方イエス・キリストです。私たち一人ひとりがしっかりと覚えておくべき事は、神さまの神殿を聖なるものとして保つ事です。パウロは、こう語っています。
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に
住んでいることをしらないのですか。
こうして、私たちは今、イエス様が、わたしの父の家を商売の家としてはならないと言われた時の正しい意味を理解できるのです。
今日のラテラノ教会献堂の祝日に際して、私たちが、教会の建物の内側や外側に関して、目で見えるものとしてのみならず、目では見えないものや目ではめったに見る事ができないものとして焦点を当てる事ができますように。私たち皆で、何よりもまず、私たちのこころの神聖さとこころの願いを保つうえで、時間とその他の労力などを賢く使っていきましょう。
聖なる神殿は、いつも神さまに守られています。パウロは、こうも言っています。
神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。
神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。




