2025年11月30日・待降節第一主日 (A)
- Bahay San Martin
- Nov 27
- 3 min read
Updated: 7 days ago
イザヤ 2.1-5・ 詩編 122.1+2,,3+4ab,8+9・ローマ 13.11-14a・マタイ 24.37-44
待降節第1週目、特に待降節が始まる今日という日(待降節第1主日)に、待降節の間に
強調されている神さまの3つの来臨を、私たちは意識しています。1つ目の来臨は、
イエス様のご降誕です。イエス様は、ベトレヘムの馬小屋でお生まれになりました。
2つ目の来臨は、キリスト者とすべての人びとの未来に最も関わっています。今日の
朗読では、この未来と、世の終わりの時にイエス様が最終的においでになる事に対する
私たちの信仰について焦点が当てられています。3つ目の来臨は、日々の生活においての
私たち一人ひとりへのいろいろな呼びかけです。私たちのうちにある神さまの存在を、
私たちは意識しています。私たちの日々の生活の中に神さまがおいでになるという事は、
いつも神さまと絶え間なくつながり/交わる事で可能になります。私たちの教会生活を
踏まえた上で、数々の秘跡のお祝いを通して、神さまは私たちの生活の中においでになるのです。
今日は、待降節の最初の主日です。しばしば、この4週間の待降節に入るにあたって、
私たちの心に思い浮かぶのは、神さまのみことばが肉となる事と、ベトレヘムの馬小屋の
飼い葉桶でお生まれになったイエス様の事です。待降節の初めの2週間は、すぐには
イエス様のご降誕についてのテーマは提示されていません。そのかわりに、私たちは、
終わりの時に最終的にイエス様がおいでになる事について黙想するようにと招かれて
います。すぐにキリスト者とすべての人々の未来についてのとても具体的なテーマに
入るという事は、イエス様が最初においでになった事が、私たちの待降節の黙想において
重要ではないという意味ではありません。どんな形でイエス様がおいでになっても、
私たちは用意しているようにと招かれています。私たち一人ひとりが、どのようにして、
そして、いつこの世を去るのかについて深く考えるのは、とても面倒な事に思えるかも
しれません。けれども、それは、私たちの人生にある未来の事実のひとつであり、絶対的に確かなものです。3つ目の神さまの来臨は、実り多き待降節の黙想のための大切な要素と
なります。私たちの日々の回心は、イエス様の最終的な再臨を迎えるために必要なのです。来週の朗読で、この3つ目の来臨が更に強調される事は、注目に値します。同様に、
イエス様が初めておいでになった事(ベトレヘムの馬小屋の飼い葉桶でイエス様が
お生まれになった事)についてのテーマは、必ずやイエス様の最終的な再臨のための用意をする上で助けとなる事でしょう。
確かに待降節第1主日では、焦らずゆっくりにと言われていますが、それと同時に、
私たちの地上での終わりの時に訪れるもののために、私たちはしっかりと用意するのです。私たちは、今日の福音朗読の言葉で、この招きを受けます。イエス様は、ノアの時と
同じように、イエス様の(最終的な)再臨は突然である事を警告されています。人々は
思いがけない時に連れて行かれるので、いつも目を覚まして用意しなさいと。
今日の第2朗読では、用意することについて、何をどのように用意するのかについて、更に書かれています。私たちは、毎日のライフスタイルについて、もっと意識を持つようにと
招かれています。確かに、私たちの人生には、思い、言葉、おこないによって、闇の領域があります。私たちは、「闇を脱ぎ捨てて、代わりにイエスさまの光を身にまといましょう」
闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。
日中を歩むように、品位を持って歩もうではありませんか。
酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
主イエス・キリストを身にまといなさい。




