2025年9月28日・年間第26主日(C)
- Bahay San Martin
- 4 days ago
- 3 min read
Updated: 3 days ago
アモス6.1a, 4-7・詩編146. 6c+7, 8ac+9bc・1 テモテ 6.11-16・ ルカ 16.19-31
今日の朗読のすべてを黙想するにあたって、神さまのみことば(毎週あるいは毎日の聖書
朗読)による私たちへの導きに対して、私たちは心からもっと感謝すべきでしょう。そうです。親愛なる兄弟姉妹のみなさん、私たち一人ひとりの社会的な貧富、それぞれの生まれ
育った家族/家庭を含む個人的な歴史、そして、現在の環境に関わらず、神さまの
みことばは、私たちがより良いキリスト者、より良い神の人となるための栄養(いわば常用薬)なのです。
では、今日の第1朗読からの最初の黙想のポイントについて考えてみましょう。贅沢な生き方、つまり、どうやって手に入れるのかに関わらず、お金を含む物質的なものに多大な
費用をかけるような生き方を控えるようにと、私たちは薦められています。たぶん極端かもしれませんが、とにかく他者を傷つけることなく、一人ひとりの努力や汗をかく事もなく
快適に生きる事は、特に悪い事ではないという人がいるかもしれません。この問題に関して私たちが思っている多くの事柄において、第1朗読では、特に、私たちがこの世の富をどう扱うのか、そして、貧しい人々や無力な人々、疎外されている人々の現在の状況に対しての、贅沢に生活している多くの人々の無関心さについて、もう一度よく見直して考える
ようにと招いています。キリスト者としての生き方は、慎重でもっと思いやりのある生き
方なのです。キリスト者としての生き方は感謝と祭事の生活ですが、それが、極端で贅沢なものとなりませんように。
今日の第2朗読では、神の人である事の特徴は何であるのかについて深く語っています。
神の人は、正義、信心、忍耐、柔和を追い求める人です。これらのすべては、私たちの
キリスト者としての信仰が基となっていて、それ故に、私たち自身や価値観や考え方や
日々の生活と、貧しい人々を愛しておられるキリストとを重ね合わせるのは、基本的で
自然な事です。
金持ちの贅沢な生活と貧しい人ラザロの生活を比べているたとえ話があります。
キリスト者の生活は、ラザロの生活と重ね合わせられます。私たちは、貧しい兄弟姉妹
たちと自分たちの生活を重ね合わせ、質素な生活を送るようにと薦められているのです。
一方で、物語の続きには、贅沢で(とても快適な)他者に無関心な人生を送った金持ちが
結果として、嘆願をするという事も描かれています。その金持ちは、自分の5人の兄弟
たちが、自分と同じような生き方をして苦しむ事のないように、父親の家に住む兄弟たちに警告を送ってほしいと願います。そして、その金持ちの嘆願は受け入れられませんでした。
今日の黙想を終えるにあたって、私たちが、今ここで聖霊の導きを受け入れる事ができますように。より良いキリスト者となるための導きは、まだ私たちが知らないものではなく、
どこかを探し続けなくてはならないものでもありません。しばらく立ち止まる事を恐れず、どのようにすれば神の人となれるのか、ほんとうに心から耳を傾け、理解しましょう。
そして、最終的には、本物の神の人として生きるのです。