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2023年11月26日・王であるキリスト(A)
11月26日・王であるキリスト(A) エゼキエル34:11-12、15-17 詩編23:2+3、5、6 1コリント15:20-26、28 マタイ25:32-46 王であるキリストは中心におられ、 全ての私たちは集まり、ひとつになる。 毎週日曜日のミサに与る事は、洗礼を受けた全てのカトリックの信徒たちにとっての義務であると、私たちは教えられています。けれども、日曜日のミサに与るカトリック信徒は、全体の50パーセントにも満たないというのが、多くの小教区での現実です。私たちは、一人ひとりのそれぞれの理由と共に、いくつかの共通した要因を知っておかなくてはなりません。「千個の希望」と深められる信仰によって、私たちは皆、神さまのみことばを聞き、キリストの御からだをいただく大きな共同体として、共に集まり、そして、私たちの信仰生活を真にお祝いします。ただし、私たちの現在の教会でのこの現実において、私たちは、私たちを包み込んでいる聖霊の働きを損なうことはできません。教会は生きていて、共同体のそれぞれの信徒たちは、私たち一人ひとりと共同体の生活、そして、それぞれ
2023年11月19日・年間第33主日(A)
箴言31:10-13、19-20、30-31 詩編128:2+3ab、3cd+5+6a 1テサロニケ5:1-6 マタイ25:14-30または25:14-15、19-21 神の国のための働きを行うために、 私たちがすでに持っているものでお応えしましょう。 私たちが先週に分かち合ったことから始めて、神の国についての黙想を続けましょう。神の国の完全な一員となるためには、私たち皆がイエス様が教えて下さったことをよく理解することを求められます。真に賢くなるということは、偽善や中途半端なことに相反する、意義のあるキリスト者としての生き方をすることであると、私たちは知るようになるでしょう。天国の一員であると言い切っているのに、自分に対して真に正直になれない人は、賢い人ではなく愚か者です。真に賢くない人(自分のためだけに賢く見える人)は、キリスト者であるということに対して、間違った理解をしているのかもしれません。 それぞれの信仰共同体に属している人は、私利私欲と 自己中心 ではなく 、いつも 共同体のために良いことを考えています 。今日の朗読は、 神の
2023年11月12日・年間第32主日(A)
知恵6.12-16; 詩編63. 2、3+4, 5+6; 1テサロニケ4. 13-18; マタイ25. 1-13 真に賢くて、思慮深い人々 教会でのこの時期(教会暦の最後から待降節第2週までの間)に限るものではないかもしれませんが、 私たちは、この地上での最後の時のための準備/用意をするようにと召されています 。街頭やいろいろな場所で、人々に彼らのグループに入るようにと説いている他のキリスト教徒のグループ(カトリックではないキリスト教徒)さえあります。基本的に、終末が近づいているという考えに基づいて、彼らは人々を説得しています。同時に、彼らのグループの仲間になることによってのみ、一人ひとりが救われると納得させています。いくつかのグループでは、終末の具体的な日付の預言さえもしています。 実際、私たちカトリック信者も、 早く回心する ようにと召されています。私たちは、いつイエス様が再びおいでになるかを知らないからです。何人かの人々は、それぞれの 最終的な目的地 は、 自分たちの用意 にかかっていると思っているかもしれません。この準備や用
2023年11月5日・年間第31主日(A)
マラキ1.14b-2、2b、8-10 ・ 詩編 131.1+2ab、2cd+3 ・ テサロニケ1 2:7b-9、13・ マタイ 23:1-12 イエス様は私たちの偉大なる、ただおひとりの師であり先導者。 私たちに教え、私たちにも先導できるように導いてくださる方 私たちは、マタイの福音朗読を通して、イエス様とファリサイ派の人びととの間での確執について学んできました。イエス様が地上におられた時の宗教的先導者たちの考え方や行いは、とても傲慢で偽善に満ちていました。 今日の私たちの典礼のテーマ は、教会での 統率力についての正直な振り返りへと、私たちを立ち戻らせてくれる ものです。 すべての教会の先導者たち が説いている教えを、先導者たち自身が実践することができるよう、 皆で祈りましょう 。 皆の模範として導く ことは、統率力のとても重要な一面/観点です。時が経つにつれて、先導者たちが自信を持って、あるいは、多少傲慢に先導している事を、自分では実践しなくなるという問題が繰り返されるようになります。 この問題についてもっと深く考えてみると、一
2023年10月29日・年間第30主日(A)
出エジプト22. 20-26・詩編18. 3, 23+25, 47+50・ 一テサロニケ1. 5c-10・マタイ22. 34-40 “愛する”という言葉はすべての言語において、最も「覚えやすい」言葉かもしれません。愛情がなくなるということは、多分、たくさんの事柄の中で本当にあり得ない事のひとつですし、誰もが絶対に望まない事かもしれません。信仰溢れるキリスト者は、基本的に愛の存在が神さまの存在のしるしであると信じています。たしかに、“愛する”ということは、私たちの日々の生活の中心です。そして、まさに、愛の教えはキリスト教のメッセージの中心なのです。けれども、キリスト教の考え方では、愛という言葉はたくさんの意味を持っていて、実際に感情的な愛や恋愛の愛について語ることはしません。私たちには、旧約聖書の時代から現在に至るまで守られている十戒があります。この十戒の解釈は、最近のたくさんの書物によって記されています。 イエス様は、今日の私たちが十戒についてちゃんと理解するようにと望んでおられます。イエス様は、“心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし
2023年10月22日・年間第29主日(A)
イザヤ 45:1,4-6、詩編 96:3+4,7+8,9+13、テサロニケ1 1:1-5、マタイ22:15-21 もう二重国籍はない。 神の国の国籍 私たちは、ここ数週間で、神の国(天国)のイメージのついて黙想してきました。(1) 今、現在 、そして、(2) 神さまがすべてを完成され、完全なものとされる時 に、神の国のより良い国民であるためにはどうすれば良いのかについて、私たちは学び続けています。先週の日曜日に、私たちは、天国へ向かって旅する信仰共同体の一員としての各々の役割について、分かち合い、どうにか深く理解することができました。 それでは、「然るべき時」のための 私たち各々の役割について、いくつかの大切な事柄 を、もう一度挙げてみましょう。私たちは、 教会の「全般的な特徴」 ( すべての人々 に対して教会の扉が再び開かれること、 すべての人々 に対してより多くの人々が使うことができる座席が与えられること)を思い返しました。私たちは、自分たちの教会の内側にある 祈りに満ちた環境を守り続けることの大切さ を思い起こしました。私たちは、.
2023年10月15日・年間第28主日(A)
イザヤ25.6-10・詩編23. 2 + 3、5、6・フィリピ4.12-14、19-20・マタイ22.1-14 自己満足しているキリスト者・熱心なキリスト者 天の国への旅 今日の聖書朗読も、天の国とは何なのかについて説明がなされています。 天の国 は、真の充実と幸せを保障できないことへの たくさんの懸念と不安に人々が縛られている状態 とは 矛盾 しているものとして、説明されることがよくあります。ですから、今日の朗読では、 私たち皆に対して、神さまが準備されているすばらしいもの を思い起こさせてくれます。これらのすばらしいものは、世の中が与えることのできるものを遥かに超えているに違いありません。神さまの招きとは、真の充実と幸せの保証ができる物事や生き方を私たちがもっとよく知るために、ただ神さまに向かって進み、聴くことです。この招きとは、私たちに準備されたものを受け取るに値する者になることなのです。 天の国は、婚宴として描かれています。私たちは皆、この結婚の祝宴に出席するようにと招かれています。この祝宴に私たち皆が出席する時、聖なる生き方をす
10月8日・年間第27主日(A)
イザヤ5:5-7、詩編80:9+10、15+16、18+19、フィリピ4:6-9、マタイ21:33-43 「神さまが信頼を置かれている民は、無責任な働き手です。 私たちはその理由を知るようになる...」 日々の回心と、より寛大な心を得るための意欲を高める言葉...
2023年10月1日・年間第26主日(A)
エゼキエル18.25-28・詩編25.4+5a、8+9、10+14・フィリピ2.1-11・マタイ21.28-32 すべてのいのちを守るための月間(9月1日―10月4日) 守られない約束より実際の行動 ・ 神さまの優しさへの私たちの応え 今日の黙想に関して、悔い改めた罪びとは、天の王国の真価について心配することは何もないということを、私たちが理解するために、 先週のミサの朗読での教え を、神さまの正義のうちに深く考える事は役に立ちます。神さまがすべての人々に対して等しく愛をお与えくださる事は、神さまの優しさと真の正義を私たちにお示しになる神さまのなさり方です。 神さまの正義について、さらなる教えがあります。神さまの正義は、罪びとを罰し、正しい人を寵愛されるといった単純なものから起因しているのでは決してありません。神さまは、罪びとに対しても、愛といつくしみを絶え間なくたくさんお与えになるからです。つまり、罰とは、神さまから与えられるものではなく、罪を犯した人の罪深さ(人は罪を犯したことに対して、自分自身を罰します。)から来ているのです。ですか
2023年9月24日・年間第25主日(A)
イザヤ55:6-9、詩編145:1+3、8+9、17+18、フィリピ1:20c-24、27a、マタイ20:1-16 すべてのいのちを守るための月間 (2023年9月1日-10月4日) 神の優しさ、そして、すべての人々一人ひとりの基本となる価値 神さまの優しさ/寛大さの豊かさを私たちが黙想する時、信仰の子は、確かに神さまのお考えは私たちの考え方とは違うという事を、ただ単純に受け入れるかもしれません。神さまは、私たちが行うのとは違う種類の正義をお持ちです。神さまは、天国の全ての聖人を愛しておられ、そして、まったく同じ愛を持って私たち一人ひとりを愛してくださいます。ですから、この愛が私たちへの神さまの愛に到達する時、皆が神さまの子どもたちとして見なされ、神さまの平等の愛をお受けする資格を持てるので、私たちは謙虚に感謝の気持ちを込めてひれ伏します。 しかしながら、いくつかの批判的な考えを持った人々は、一見「 神さまの不平等な正義 」に思われることに対する、彼ら自身の疑問に答えるために多くの時間を費やすかもしれません。神さまの真の考え方が、どれくらい私
2023年9月17日 · 年間第24主日(A)
シラ27・30-28・7、詩編103・3+4、8+13、11+12、ローマ14・7-9、マタイ18・21-35 すべてのいのちを守るための月間 (9月1日-10月4日) 今日の私たちの短い黙想のために、答唱詩編のことばは、今日のその他の全ての朗読に対しての各々の理解が明らかになるための、とても基礎的な中継地点となり得ます。私たちは、私たちの罪をおゆるしくださり、悪い感情・痛み・悪意があるように思われる心のために破滅の危機にある人びとに、救いをもたらしてくださる神さまについての基本的な知識を与えられています。冷静さ、自制心、隣人への溢れる愛、心の平和、謙虚さなどすべては、私たちの癒し手である神さまの救いの業によって、絶え間なく溢れ出ています。これは、命あるすべてのものに対して、私たちを神さまの子どもとして、私たちの命をお守りくださる神さまの御業です。 今日の第一朗読と第二朗読の両方に書かれている強さと懇願は、 自分のために死ぬことと主のために生きること という人生の目的を受け入れ、大切にするようにと私たちを導いています。 私たちの憤り/復讐と怒りを
2023年9月10日・年間第23主日(A)
すべてのいのちを守るための月間(9月1日~10月4日) エゼキエル33.7-9、詩編95.1+2、5+6、7+8・ローマ13.8-10、マタイ18.15-20 すべてのいのちを守るための月間(9月1日~10月4日 ) 今日の私たちの 朗読(聖書からの一節) だけではなく 、私たちの毎日の 聖書(聖霊の導きを受けた人によって書かれたもの)の朗読(読むという行い) も、 私たちに心を変化させるように働きかけます 。たくさんの、そして異なる聖書の一節の文脈と背景から、私たちは回心するようにと後押しされているのです。今日の典礼の中心となるテーマは、私たち皆が 兄弟姉妹たちの共同体としての教会に所属することに対しての各々の意識 について語っています。ですから、他の信者たちに手を差し伸べること、共同体としての責任をもっと強く持つこと、そして、各々が霊的な行路(神さまとの関係)を支えることに対して、私たち皆がどこまで自分自身を捧げてきたのか、自分たちの心についてよく考えるようにと招かれています。つまり、今日、私たちは、 兄弟姉妹たちの共同体として
2023年9月3日・年間第22主日(A)・ 被造物を大切にする世界祈願日
エレミア20・7-9、詩編63・2、3+4、5+6、ローマ12・1-2、マタイ16・21-27 被造物を大切にする世界祈願日 すべてのいのちを守るための月間 (9月1日~10月4日) 教皇フランシスコは、9月1日を被造物を大切にする世界祈願日としてお定めになりました。私たちは、今日すべてのいのちを守るための祈りをお捧げします。今年の具体的なテーマは、アモス書の「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ。」(アモス書5・24)からきています。つまり、私たちのテーマは「正義と平和を大河のように。」です。教皇フランシスコの今年の世界祈願日ための祈りの主旨は、すべての被造物との関係を更新するよう、私たちに勧めています。私たちの希望は、私たち皆がもはや被造物を利己的に利用するための対象としてみなすのではなく、すべての被造物を私たちの創造主からの神聖な贈り物として、大切にし守ることです。私たちは、子供たちや若い人びとへの環境を守るための教育を推奨するようにと勧められています。地方自治体や、その他の環境保護のために尽くしている様
2023年8月27日・年間第21主日 (A)
イザヤ 22. 19-23・詩編 138. 1+2ab, 4+5+7d, 8・ローマ 11. 33-36・マタイ 16: 13-20 私たちは皆、神さまの権威と保護のうちにいます。 あなたと私は、日曜日と時には週日でさえも教会に来て、イエス様を救い主であり、私たちの日々の生活の主であることを宣言します(心から認めます)。神さまのいつくしみ深いお恵みあふれる教会で、あなたと私がイエス様のことをもっと知り、そして、キリストのうちにキリストと共に、より多くの人生を経験できるように導いて下さる秘跡にあずかります。確かに、イエス様をより深く知り、そして、信徒としての生活をもっと深める経験をするために、共同体で祈り、共同体としてミサにあずかることは役に立ちます。 私たちは、イエス様に対して個々の理解をしていて、多くの異なるやり方で教会にきますが、私たちは各々、独自の環境や周囲の状況の中で生まれ育ったので、イエス様に対してのレスポンスは、それぞれの生活の中で異なっているように見えるかもしれません。なによりまず、私たちが、 心の底からイエス様を私た
2023年8月20日・年間第二十主日 (A)
イザヤ56.1,6-7・詩編67. 2+3, 4;5, 7+8・ローマ11.13-15, 29-32;・マタイ15.21-28 イエス様は、すべての人のことを気にかけて下さる だれもお見捨てにはならない 今日の朗読では、私たちの日常生活の中での事がどんなに矛盾するように見えても、神さまの愛といつくしみ、お導きと摂理のうちに、私たちは、信頼と確信をもっと強く持つようにと求められています。私たちの共通であり個々でもあり、独特な経験である世界の現実は、一見、見捨てられたように思われるかもしれませんし、私たちのことを気にかけて下さる神さま(思いやりのある神さま)を信じる事を妨げているかもしれません。おそらくさまざまな形で現れる避けられない病気や、人間の過ちや自然災害のために起こる事故に対して、どのように、そして、なぜ、神さまはこのような世界を容認され、なぜ、神さまはこのように多くの人々が苦しむのを差し許されるのか、絶え間ない疑問が出てきます。 このような疑問は残り、答えられないように思われるかもしれませんが、私たちの疑問は、信仰と忍耐(祈りのうち
2023年8月13日・年間第十九主日 (A)
列王記上19. 9a, 11-13a、詩編 85. 9, 10+11, 12+13+14、ローマ9.1-5・マタイ14. 22-33 特に私たちの生活の中で、もっとも困難な時に イエス様の存在を認める ここ最近の日曜日の分かち合いでは、私たちの黙想のための異なるポイントがどんなにたくさんあっても、教会に来ること、ごミサに参加すること、その他の秘跡を受けること、小教区の人々と一緒に信仰生活をお祝いすること、そして、いろいろな方法で他の人々を助けるという呼びかけに応えることを、どうにか認識し受け止めるようにと導かれています。これらは、私たちの心が宝物のある場所にあるというしるしです。私たちの信仰生活、いわば私たちの宝物である神さまとの関係について、ここでは語られています。 今日の福音朗読では、パンと魚(膨大な人々、子どもを含む5000人以上の男たちと女たちの食事として)が増えたという、弟子たちとともにおられたイエス様の先に行われた業に続いて、弟子たちが船に乗っている間、イエス様はおひとりで山に登られ、祈られるということが書かれています。...
2023年8月6日・主の変容(A)
ダニエル7.9-10,13-14 詩編97.1+2,6+9 マタイ17.1-9 私たちの主イエス様の変容 は、ほとんど明らかにされていて、もちろん一般的には 天の栄光を垣間見ること 、そして、 神さまとの、神さまご自身との究極的な出会い として理解されています。 天の栄光を垣間見る経験 として、この変容という出来事は、余生の現実(実現)と同様に、 神さまの存在の完全さの体験を望むようにさせてくれます 。この天の栄光という言葉は、 地上にいる間に 私たち自身の中で継続的に価値観(福音の価値観)を形づくること を通して、私たちがおそらく証明できる天の王国 とは多少違っているように思われるかもしれません。---おそらく将来的に、神さまの存在の完全さの証人となるための手段(必須条件)です。ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネにとって、この垣間見るということは、 彼らのイエスさまへの信仰を深めるようにと導き、勇気を与えてくれる出会い のための助けとなり、そして、イエス様の使徒としての聖務において行く手を阻む課題のために、彼らにしっかりと準備させてく
2023年7月30日・年間第十七主日 (A)
列王記3.5, 7-12 ・ 詩編119. 57+72, 127+129, 160+162 ・ ローマ8.28-30 ・ マタイ13. 44-52 マタイの福音書で示されている神さまの王国について引き続き黙想することは、天の王国の計り知れない価値と大切さについての理解を私たちにもたらしてくれます。畑に埋められた宝のたとえ話と、高価な真珠のたとえ話は、どちらも天の王国の計り知れない価値と大切さを伝えています。 確かに、私たちの宝があるところに、私たちの心もあります。畑で埋もれた宝物を見つけた人が、喜んで出かけて、持っているものを売り払い、畑を買ったのと同様に、私たちも、もっと時間を費やして、そして、いろいろなことに対して諦めるという気持ちから脱して、もっと力を発揮して努力をするようにと鼓舞されています。上質で高価な真珠を見つけた商人が、持っているものをすべて売り払ってその真珠を買い求めるのと同様に、私たちもその商人のように、決意のもと、なにがあっても、断固としてその高価な真珠を手に入れることができるのです。 ですから、私たちは天の王国の
2023年7月23日・年間第十六主日(A)
知恵12・13、16-19・詩篇86.5+6,9+10、15+16・ローマ8.26-27・マタイ13.24-43 今日の福音は、先週の日曜日の聖マタイの福音の続きで、私たちは、すぐに黙想のための重要なポイントを考えることができます。同時に、 私たちの心に植えられた種を育てること と、 神さまのみことばを広めること に関するテーマは、先週の私たちのはっきりした黙想の主題でしたが、今日は 天の国 (神さまの国)とはどういうところなのかという、イエス様の説明についてです。 私たちに提示され説明されている 王国 は、主に 今ここで (現在のこの世界で)人間関係の間に存在する 環境や状況 であるということを理解しましょう。同時に、この 王国は場所 であるという私たちの理解への固執から離れられないかもしれませんし、私個人としては、理解する上で全く悪くはないと思います。王国が状況であるか場所であるかというこれらの理解は、今日の朗読で伝えているとても重要な事をピックアップする邪魔にはなりません。この王国は、 その時の状況であり、福音の真価が優先する場所で
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