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2025年7月6日・年間第14主日(C)

イザヤ66.10-14c・詩編66.1+2+4,5+9,16+17・ガラテヤ6.14-18・ルカ10.1-12,17-20

 

私たちは、今日、内なる平和、喜び、弟子であるという事といったキリスト者としての

信仰の背景にあって、お互いに関連しているテーマについて黙想するようにと招かれて

います。私たちが語るべき平和とは、本当のキリスト者としての生き方を受け入れる

事によってもたらされるもので、本当のキリスト者としての生き方を受け入れている人は皆、イエス様の十字架と自分たち自身を同一視する事が、平和をもたらすという事を理解

しています。私は、確実に平和と喜びをもたらすために、キリストの十字架と私たち自身をどのように同一視すればよいのかを理解するよう、誠実な心で腰かけ、あるいはひざまずく必要があると固く信じています。

 

今日の福音朗読では、「平和と喜び」をもたらす者、つまり、キリスト者としての喜びを

証しする者は、神さまのぶどう園の本当の働き手であると語っています。キリスト教の

信仰、いわゆる2000年以上も前から起源するカトリックは、現在も世界中に広められています。けれども、大切なのは、洗礼を授けるという儀式だけでなされるものではない

(なされるものであってはならない)という事です。第2朗読では、私たちの信仰と

キリストの内にある洗礼の意味する事について、もっと深く掘り下げるようにと勇気付けてくれています。本物の弟子になる事への召命について、さらに深く黙想するようにと導いてくれているのです。私たちは、純粋に/本当のひととなるために変わるようにと、そして、イエス様の似姿としての「新しい創造物」となるようにと、召されています。確かに、

パウロのガラテヤの教会への手紙で、確かなるキリスト教(現在、多くの宗派の中で組織化され確固たるものとなっているカトリック)は、「新しい創造物」となるための最も効果

的な道であると語っています。

 

常に、洗礼を受ける人々の数は増え、その数は大いなるものとなるであろう可能性があり

ます。イエス様が二人ずつ組にして遣わされた72人の弟子たちに言われたイエス様の

みことばは、本物の弟子となる(「新しい創造物」となる)事の緊迫さをよく言い表して

います。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のための働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」この言葉は、司祭や修道者に対する召命だけではなく、私たち皆への召命なのです

 

何故、近年の働き手が少ないのでしょうか!私たちの平和と喜びの源となっているの

ものは、働き手が少ない事の理由となり得ます。キリスト者としての私たちの成すべき

こと(召命)は、平和をもたらす者となる事です。何よりもまず、私たちには、平和と内

なる平安が必要なのです。イエス様にもっと近づいて従う事は、私たちを平和をもたらす

者になる事へと導いてくれます。

 

平和をもたらす者は、たくさんの荷物を持つことはしません。たくさんの荷物を持つという事は、収穫したものを集めにくくしたり、集められなくしてしまうからです。内なる

平安は、物質的なものを持つ事とは真逆のものです。「新しい創造物」となった者に

とって、内なる平安は、不必要な恐れを取り除いてくれます。それは、常に、社会的に個人個人や共同体の状況や視点を超えています。また、常に、世界規模での権力や影響力をも

超えています。

 

私たちが、最終的には、本物のキリスト者としての平和と喜びが、内なる平安に基づいて

いるという事を集約することができますように。イエス様(かつてこの地上においでに

なり、受難を受け、十字架上で亡くなり、そして、復活された方)にもっと近づき従う

事で、多くの人々ひとりひとりに遣わされた者として、私たちは、心の豊かさと喜びと歓喜と共に、誰にも奪う事のできない内なる平安と自信と得るのです。

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